私が中学2年の時に親が正式に離婚します。兄が高一、妹は小学5年生。大きな原因は嫁姑問題でした。小学校低学年の頃から父があまり家に帰って来なくなり、父方の祖父母も同居していたので、それでも母は祖父母のご飯を毎日作る。たまに父が帰ってきた時、母は父の好きないなり寿司をたくさん作っていました。でも、父はそれを見ただけ。食べずにまた出て行ってしまいました。子供の頃のことはあまりよく覚えている方ではないけど、でもあの見た光景は鮮明に残っています。夜中に母が泣いている会話で目が覚めることもありました。そんな中、母は精神的に病んでしまい、実家に帰って、入院してしまいます。
昔はテレビが一番観える上座に祖父が座っていて、すぐに何か持って来れるように、炊事場に一番近いのが母。私は母の隣、ちょうど祖父の目の前に座っていました。ふと、祖父がテレビを観ていると思って顔を上げたら、私に”イーッ”て顔してるんです。その時は子供心にびっくりして、誰にも言えなかったのを覚えています。
小学校5年生の時、体調を崩して保健室で寝ている時に、家に連絡した担任の先生が、母が病気で家にいないことが分かって、私は誰にも言えなかった気持ちがあふれ出たのか、大泣きしてしまったのを覚えています。
裁判までずいぶん時間がかかりました。中学2年の時、兄と一緒に家庭裁判所に連れて行かれ、母と一緒に暮らしたいと意思表示をします。妹は小さかったので、無条件で親権は母に。兄は長男だから、渡したくないと言われていたそうですが、母は兄妹をバラバラにしたくないと頑張ってくれたそうです。
母の所へ行くのが近くなると、父は兄に、お母さんのところに行くんやな?と聞かれていた様に思います。妹も父の膝に乗せられて、話をしていた光景も残っています。私だけ何も聞かれませんでした。
とうとう母と一緒に住める日。その日は、朝は父の家から学校へ行き、帰りは母のいる家に帰る。お花を買って帰りました。なんだか恥ずかしかったな。
母との生活が始まりました。母は働き通し、生活も裕福ではありません。でも母は一切悪い事を言わない人。母の苦労を気づかぬふりで、反抗期に。心配をかけました。
二十歳の頃、母の病気が再発。精神的な病気は治ったと思った時が危ないと後から聞きました。母の妹、おばさんが迎えに来て、実家に帰ることに。その時に玄関の閉まる瞬間に見た母の顔。今でも忘れる事ができません。母はそのまま帰って来ませんでした。
その後の記憶は途切れ途切れです。
なんで母をもっと大事にしてあげなかったか。人生やり直せるなら、母と暮らし始めた時からやりなおしたい。後悔しかありません。
母は47歳。私は母の歳をとっくに超えてしまいました。つくづく母の人生は短すぎて。私がそうさせしまったのだ。何でも自分に帰って来る。娘の事で悩むと、その通りやなと。私も母を困らせたと。幾つになっても母にいて欲しいと思う。今でも会いたいと思う。苦労かけてしまった私を、母は許してくれるだろうか。
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